日本ダービー発祥の目黒競馬場|消えた理由と現在の跡地を追う

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日本ダービー発祥の目黒競馬場|消えた理由と現在の跡地を追う
日本ダービー発祥の目黒競馬場|消えた理由と現在の跡地を追う
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🎵 日本ダービー発祥の目黒競馬場|消えた理由と現在の跡地を追う

東京都目黒区の閑静な住宅街、下目黒エリア。瀟洒な邸宅が立ち並ぶ街並みを歩いていると、「元競馬場」と記されたバス停や、住宅街路路としては不自然なほど滑らかな弧を描く幹線道路に遭遇します。この地こそ、日本競馬の最高峰である「日本ダービー(東京優駿)」の産声を上げた伝説の地、目黒競馬場の跡地です。

1907年(明治40年)の開設から1933年(昭和8年)の府中移転まで、近代日本競馬の発展を牽引し続けた目黒競馬場は、なぜ都心の一角から忽然と姿を消すことになったのでしょうか。本稿では、当時の熱狂や府中移転に隠された構造的背景を紐解くとともに、令和の街並みに今なお息づく遺構や記念碑、散策ルートの現場ルポを徹底解説します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:目黒競馬場は1932年に「第1回東京優駿大競走(日本ダービー)」が開催された近代競馬発祥の聖地であり、現在の東京競馬場(府中)の直接の前身である。
  • 要点2:関東大震災後の急速な東京の都市化に伴う宅地化圧力、敷地の狭隘化、借地権問題が重なり、1933年に府中市への移転を余儀なくされた。
  • 要点3:現在の目黒区下目黒4丁目・5丁目界隈には、「元競馬場通り」「元競馬場前バス停」、コース形状をそのまま残した道路、名種牡馬「トウルヌソル記念碑」など貴重な痕跡が色濃く残っている。

日本ダービー発祥の地・目黒競馬場|熱狂と創設の歴史的経緯

目黒競馬場の歴史は、明治末期の1907年(明治40年)、東京競馬会によって開設されたことに始まります。当時、政府による馬券発売の黙許(競馬令公布前の馬券公認期間)を背景に、東京近郊における本格的な洋式競馬場として誕生しました。設計を手がけたのは、日本近代建築の巨匠として知られる妻木頼黄(つまき よりなか)らを中心とする技師陣であり、白亜の木造メインスタンドは当時の東京市民にとって屈指のモダン建築でした。

開設当初から大正時代にかけて、目黒競馬場は全国の競馬倶楽部をリードする存在として君臨します。特に日本競馬史における最大の金字塔が打ち立てられたのが、1932年(昭和7年)4月24日に行われた「第1回東京優駿大競走(現・日本ダービー)」の開催です。イギリスのクラシック三冠レースに範を求めたこのレースには、全国から19頭の精鋭馬が集結。大雨の重馬場を制し、初代ダービー馬の栄冠に輝いたのは、のちに顕彰馬にも選ばれる名馬ワカタカ(調教師・騎手:函館孫作)でした。

当時の報道記録や競馬関係者の手記によると、第1回ダービー当日のスタンドは立錐の余地もないほどの超満員となり、入場者数は1万人を突破。周辺道路は人力車や自動車、臨時バスで埋め尽くされ、東京市街地から押し寄せた観衆の熱気は凄まじいものだったと記録されています。

当時のメディア報道・掲載写真
【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:hamiuke.com)

なぜ姿を消したのか?目黒競馬場が府中へ移転した3つの構造的理由

第1回日本ダービーの熱狂からわずか1年半後の1933年(昭和8年)秋、目黒競馬場はその輝かしい役目を終え、北多摩郡府中町(現・東京都府中市)へと移転しました。日本競馬の中心地として隆盛を極めていた目黒競馬場が、なぜ突如として移転を決断せざるを得なかったのか。その背景には、当時の社会構造と都市計画に関わる3つの決定的要因が存在しました。

① 関東大震災後の急速なスプロール現象と宅地化
1923年(大正12年)の関東大震災以降、被災した東京の下町(浅草・本所・深川など)から多くの人口が郊外の山の手方面へ流入しました。当時、農村地帯であった目黒周辺にも住宅建設の波が一気に押し寄せ、競馬場の周囲は瞬く間に新興住宅街へと変貌。競馬開催に伴う騒音、粉塵、観客による混雑が周辺住民との間で軋轢を生むようになり、競馬場自体の存在が都市計画上の課題となりました。

② 敷地面積の狭隘化とコース拡張の限界
目黒競馬場の馬場は1周約1マイル(約1,600m)、直線の長さは約400mと、当時の基準としても決して広いものではありませんでした。大正末期から昭和初期にかけて出走頭数が増加し、競走馬の大型化とスピード化が進む中で、コーナーのきつい目黒のコースは競走馬の故障事故が多発する危険なレイアウトとなっていました。観客席の増設やパドックの拡張を行おうにも、四方を民家に囲まれており、これ以上の拡張は不可能だったのです。

③ 借地権問題と地代の高騰
目黒競馬場の敷地(約6万5千坪)の大半は地主からの借地でした。都市化の進展に伴い地価が急騰すると、地主側からの地代値上げ要求や返還要求が激化。競馬倶楽部の財政を大きく圧迫する要因となりました。これを受け、当時の東京競馬倶楽部会頭であった安田伊左衛門(日本中央競馬会の初代理事長・安田記念の由来人物)は、「将来の日本競馬の発展には、自前の広大な土地と国際水準のコースが不可欠である」と決断。広大な敷地を安価に確保できた府中の地への全面移転を断行したのです。

【徹底比較】目黒競馬場と現在の東京競馬場(府中)のスペック対比

目黒から府中への移転が、いかに日本競馬の規模と質を劇的に引き上げたのか。当時の公式記録およびJRA(日本中央競馬会)の公開資料に基づき、両競馬場の基本スペックを比較検証します。

項目旧・目黒競馬場(下目黒)現・東京競馬場(府中市)編集部の見解・評価
運用期間1907年〜1933年(約26年間)1933年〜現在運用中昭和初期の移転判断が今日の近代競馬インフラを確立
敷地面積約21.5ヘクタール(約6.5万坪)約67.0ヘクタール(約20.2万坪)敷地面積は約3.1倍に拡大し国際競走に対応可能に
芝コース全周約1,600m(1マイル)2,083m(Aコース時)コーナーの緩和により馬の安全性と公平性が劇的に向上
最後の直線距離約400m(平坦)525.9m(高低差2mの坂あり)直線500m超と坂の導入で実力伯仲のレース展開を実現
第1回日本ダービー1932年開催(勝ち馬:ワカタカ)1934年・第3回より開催継続目黒で産声を上げた最高峰レースが府中へ完全継承
活動歴および当時の関連ビジュアル記録
【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:keiba-photo-and-blog.site)

現場ルポ|目黒競馬場の痕跡地図と「元競馬場通り」の散策ポイント

競馬場が閉鎖されてから90年以上が経過した現在、目黒区下目黒4丁目・5丁目の一帯は閑静な邸宅街となっていますが、街を歩くと随所に当時の生々しい痕跡を認めることができます。航空写真や現代の地図アプリを開きながら散策すると、当時のオーバル型コースが道路としてそのまま転用されていることが実感できます。

① 競馬場の輪郭をトレースする「元競馬場通り」と外周道路
目黒通りから南側へ分岐する商店街「元競馬場通り」は、かつてスタンド前を通過していたコースの西側直線部に相当します。さらに東側の住宅街へ足を踏み入れると、整然とした碁盤の目状の区画とは明らかに異質な、「半径の大きな緩やかなカーブを描く道」が約1kmにわたって続いています。これは当時の第3〜第4コーナーの外柵に沿って敷設された道路であり、当時の馬場カーブが都市構造としてそのまま固定化された貴重な痕跡です。

② 東急バスの「元競馬場前」バス停
目黒通り上を走る主要バス路線(東急バス・黒01系統など)には、今なお堂々と「元競馬場前」という停留所名が使用されています。毎日数千人の乗降客が利用するこのバス停は、地元住民の生活に溶け込むと同時に、かつてこの地が一大レジャースポットであったことを現在に伝えるモニュメントとしての役割を果たしています。

③ 目黒通り交差点に佇む「トウルヌソル記念碑」
下目黒4丁目交差点の角地、旧競馬場のメインゲート付近にあたる場所には、巨大な駿馬のブロンズ像「トウルヌソル記念碑」が建立されています。トウルヌソルはイギリスから輸入され、第1回ダービー馬ワカタカをはじめ数々の名馬を輩出した戦前屈指の大種牡馬です。台座には目黒競馬場の沿革と、日本近代競馬の礎を築いた同馬の功績が刻まれており、散策者が足を止める象徴的スポットとなっています。

名馬の記憶と伝統|「目黒記念」の由来と東京競馬場への継承

現在も中央競馬の重賞競走として絶大な知名度を誇るGIIレース「目黒記念」。日本ダービー開催日の最終レース(または同週)に行われる名物ハンデ重賞として競馬ファンに親しまれていますが、この競走名こそが目黒競馬場の存在を後世に語り継ぐために創設されたものです。

1932年(昭和7年)秋、目黒競馬場の功績を称える記念競走として「各内国産古馬競走」の名称でスタートし、のちに「目黒記念」へと改称されました。1933年の競馬場閉鎖後も競走名が消滅することはなく、府中へ移転した東京競馬場へと引き継がれました。JRAの重賞競走において、現存しない旧競馬場の名前を冠したまま現在も運用されているレースは「目黒記念」のみであり、日本競馬界がこの発祥の地に払う敬意の深さを物語っています。

公の場での発言・インタビュー報道記録
【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:minnano-jouba.com)

一般に知られていない盲点とネットの誤解|「目黒駅至近」のウソ

ネット上の情報やSNSの投稿において、「目黒競馬場は現在のJR目黒駅のすぐ裏手にあった」と誤解されているケースが散見されます。しかし、これは地理的な事実とは異なります。

【誤解の是正:実際の所在地とアクセス】
JR目黒駅は品川区上大崎に位置しており、目黒競馬場が存在した「目黒区下目黒4丁目・5丁目」までは、駅から目黒通りを下り、大鳥神社を越えて約1.5km(徒歩約20分)ほど離れた内陸部にありました。当時は目黒駅から乗合馬車や臨時バスがピストン運行されており、決して「駅前すぐの立地」ではありませんでした。

【プロの結論】競馬遺産散策・都市史探訪を楽しむための判断基準

目黒競馬場跡地は、一般的な観光地のように大規模な資料館やテーマパークがあるわけではありません。しかし、都市の地形や歴史レイヤーを読み解くフィールドワークとしては国内屈指の面白さを秘めています。

【こんな人におすすめ】
・日本の近代競馬史や名馬のルーツを肌で感じたい競馬ファン
・関東大震災後の帝都復興と山の手住宅街の形成過程に関心がある都市工学・歴史ファン
・古地図や航空写真を片手に、街並みの微地形や不自然なカーブを探索する街歩き愛好家

【おすすめできない人】
・当時の建物そのもの(スタンドやパドックの実物)を直接見学したいと考えている人(建造物は完全に解体されており、現存するのは道路線形と記念碑のみです)。

【目黒競馬場】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:目黒競馬場の跡地には、現在具体的に何が建っていますか?
A1:敷地のほぼ全域が「下目黒4丁目・5丁目」の閑静な住宅街となっており、戸建て住宅や中低層マンション、公園、目黒区立不動小学校などが立地しています。競馬場関連の大型建築物は一切残っていませんが、道路のカーブ形状や記念碑にその姿を留めています。

Q2:なぜ競馬場の跡地なのに「元競馬場」という地名が残っているのですか?
A2:正式な行政地名は「下目黒」ですが、1933年の移転後、地元住民がこの一帯を親しみを込めて「元競馬場」と呼び続けたためです。現在も東急バスの停留所名や商店街(元競馬場通り商店街)の名称として定着しています。

Q3:目黒競馬場跡地の痕跡巡りをする場合、どのルートが一番わかりやすいですか?
A3:JR目黒駅西口から東急バス(黒01、黒02、黒06など)に乗り、「元競馬場前」バス停で下車するのが最短です。バス停すぐの「トウルヌソル記念碑」を見学後、元競馬場通り商店街を抜け、住宅街の外周道路(旧コースの第3〜第4コーナー)をぐるりと一周するコース(所要時間約40〜50分)が最適です。

まとめ:近代競馬の聖地が遺した都市の記憶

明治から昭和初期にかけて激動の時代を駆け抜けた目黒競馬場。第1回日本ダービーの熱気とともに歴史の表舞台から去ったこの場所は、単に消滅したのではなく、日本の都市化の波と競馬の近代化を受け止め、現在の府中・東京競馬場へとその魂を受け渡しました。

住宅街の滑らかなカーブや、交差点の片隅で誇らしげに前を見つめるトウルヌソルの銅像は、90年以上の時を超えて今もなお、競馬史の熱狂を静かに物語っています。週末のひととき、古地図を片手に下目黒の路地裏を歩き、日本競馬の原点となった壮大な記憶に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。 (出典: 目黒 競馬 場(Yahoo!ニュース))